大阪観光

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大阪城

大阪城は、大阪市の上町台地の北端に位置しています。現在のように高層ビルがない時代、5層6階の天守が聳える姿は、他を圧倒していただろうことは想像に難くありません。特に織田信長の後を受けて天下を掌握した豊臣秀吉は、己の威勢を天下に示して、戦国の世が終わり新しい時代が始まったことを示すために、絢爛豪華な城を造営しました。

秀吉は、前時代の石山本願寺が、この地に拠って織田政権に対抗したその戦略性を高く買ったのでしょう。その上に、水の都といわれるように、多くの河川が巡るこの地が、京都にも近く水運でつながっていることもあり、また、瀬戸内という当時は海運で大動脈となり得る地に政権を定めたことは、まことに先見の明があったものといえるでしょう。

また壮大な惣構えを巡らせ、難攻不落の名城となしたことのより、諸侯は秀吉の前にひれ伏すしかなかったのでしょう。有名な宣教師であるフロイスもまた、大坂城(当時の名称)を天下最大にして、黄金がきらめくような名城であると讃えています。

もしも、秀吉の後を継ぐ秀頼がもう少し早く出生していたら。そして秀吉の弟である秀長がもう少し長生きしたらと、たらればを数え上げればキリはありませんが、そうなれば徳川家康ももう存命ではなかった可能性がありますので、豊臣政権が延命していたかもしれません。

けれども、現在私たちが見ている大坂城は、大坂夏の陣で滅びた豊臣氏の大阪城を凌駕するために、徳川氏が築城したものですから、徳川氏が政権を掌握しなければ、現在の城もあるかどうかは何ともいえません。徳川氏が築いた大阪城は、基本的には豊臣氏のそれを引き続いているというよりは、豊臣の城の上に新たな城を築き直したといえるものです。

大坂冬の陣後の講和によって、外堀や惣構えは埋められてしまい、そのうえ、夏の陣によって天守等は焼失してしまったわけですが、城地そのものは残っているわけですから、徳川氏が天下を掌握するためにも、豊臣氏の事跡を全て覆い隠す必要があったわけです。

結果的に、徳川氏の城は巨石を持って造営した巨大な石塁と、広大な壕そして豊臣氏の天守を凌駕する大天守ほか巨大な櫓が造られました。これには、外様大名を財力を削ぎ、徳川氏への忠誠をはかる意味も含んでいたわけですから、一石三鳥
の意味合いがあったわけです。

それで、今日私たちは、高層ビル群に埋もれることもなく屹立する大坂城を堪能できるわけですが、残念ながら、現在の天守は徳川の石垣の上に、江戸時代に焼失した天守の代わりに、秀吉風の天守を鉄筋コンクリートで作ったものなので、城郭ファンにとっては、ありがたみが薄れます。

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